2017/03/05~07ドイツ旅行⑧ベルリン滞在、そして帰国へ。
前回はこちら↓
さて、前日ドレスデンからベルリンへ到着し、ホステルへチェックインしました。
3月5日が日曜日で、ドイツでは多くの店が日曜日はお休みとなります。遅めの朝食、ブランチを食べられるお店さえも昼頃から開店したり、と町中が「日曜日は休み」といった風情です。安息日ってやつでしょうか。そのため、3月5日(日)に撮った写真の記録がこれしかありませんでした。
ベルリン観光の写真の記録は3月6日に集中しているので、3月5日、この日曜日に私は何をしていたのでしょう。これを書いている今、ずいぶんと前のことなのでベルリンでの2日間の詳細を覚えていないのですが、おそらく私はこの日、現地のゲイと会っていました。
ゲイが出会うアプリで当時私がよく使っていたのはGrindrと呼ばれるものでした。日曜日でお店も閉まってるしなんか外も曇ってて天気も悪いし今日は何しようかな〜ピコンピコンと、ベッドの上でその出会い系アプリを眺めていました。
すると、一通のメッセージが。「Hi」それだけ。よくあることです。
プロフィールを見てみると、イランとか中東系の顔立ちで、関西弁を流用するならなんとなく「シュッとしてはる」感じでした。
いまなにしてんの?暇してんの?中国人?日本人か。観光?どこ泊まってんの?などと短くて、わかりやすいチャットのやりとりが続きました。どうやら英語よりドイツ語の方がわかる殿方のようで、一方、ドイツ語はからきしダメで英語の方が使える私とのコミュニケーションとなりますと、やはりどうしても簡素なやりとりになってしまいます。
そういった短いやりとりのあと、なんとなく性交渉をする?的な流れになり、私も全然オープンなマインドだったので、私が泊まっているホステルに来てもらうことになりました。
ベッドで寝て待ってるだけで来てくれるだけなんてラクでいいや〜くらいにしか思ってませんでした。
2017年当時、2月に20歳になったばかりの頃ですから、日本にいたときも、Grindrを使ってやりたい放題、会いたい人と会ってヤりたいことをヤッてばかりいました。
英語でのコミュニケーションの方が性に対して気持ちがオープンになるし、Grindrというアプリが外国人によく使われているという特性もあってか、当時の私は日本人ではない人ばかりと一夜(たまに昼)限りの、身体の関係をもつことを試し、繰り返している頃でした。
ですから、異国の地で知らない人を滞在先に呼ぶことの危険性とかリスクなどはあまり考えずに、気楽にセッションへと気持ちを向けていたのだと思います。
モハメッド(仮名)と名乗るその殿方は、出会い系アプリの写真で見るよりも実際は太っているというかまんまるく、彫りの深く浅黒い肌の子熊のような人でした。
英語があまり得意ではない様子でしたので、特に言葉を介した深くお互いを知るようなコミュニケーションは無く、とるものとりあえず、行為へと事が進みました。
行為に関しては、彼が持ってきていた潤滑剤、ローションが緑色だったことに若干驚いた記憶だけ残っています。私は大抵、抱かれる側です。完全に要らない情報ですが。抱く方もやったことはありますが、圧倒的に気の持ちようとしては抱かれる側の方が、自分に合っていると感じます。
行為が一通り終わったあと、お互いの話を少ししました。
モハメッド(仮名)がペルシャからベルリンに出稼ぎに来ていること。ペルシャにいた頃は宝石などを扱う仕事をしていたこと。ベルリンでは工場で働いていること。彼氏はいたけど別れたばかりなこと。など、そういう話をしたことを覚えています。
行為だけを済ませて、目的達成すればハイ解散、といった感じではなく、なんとなくお互い居心地のよさを感じていたので今後もたまに連絡をとれるよう、Facebookで繋がる運びとなりました。
最近、彼のFacebookを覗いてみたら、どうやらまだベルリンにいて、新しい彼氏らしき人と一緒に写真に写っているのを確認しました。
私が東京で鬱屈としているとき、世界のどこかではシロナガスクジラが潮を吹き、ベルリンではモハメッド(仮名)が彼氏と公園の芝生でサンドイッチでも食べているのかもしれません。
世界の広さ、同時性、多様性、総人口、などと思考のスケールを広げていって、自分がその途方もないほど大きな世界のごくわずかな一部分にしか過ぎないことを意識すると不思議と気分が落ち着きます。
たった一回限りの関係でしたが、今日もモハメッド(仮名)が日々を特に苦しいことなく過ごせていることを勝手に願う私がいます。
そんな、ベルリンで過ごす日曜日、こと安息日でした。
ごめんね、だって、それしか記憶がないんだもの。もしかしたら、次に書く3月6日の記録で行った観光地に、この日曜日に行ったのかもしれません。
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明けて3月6日、月曜日です。今日はベルリン観光をし、夜のバスでハンブルクへ戻り、3月7日に日本へと出発し帰国する手筈です。
ベルリン観光、なんといってもみなきゃいけないのはベルリンの壁、ことイーストサイドギャラリーでしょう。ホステルからも近いのでまずそこへ向かいます。
イーストサイドギャラリーとは、ベルリンの壁崩壊、ドイツ東西分断の終焉を祝って、多数のアーティストによって壁に描かれたグラフィティアート群です。
この横顔モチーフのグラフィティが気に入りました。
近くにある土産物ショップには、イーストサイドギャラリーの作品をモチーフにしたグッズが多数売っており、この横顔アートモチーフのノートがあったので土産に購入したことを覚えています。
ところどころ、作品の前にある金網というか柵が邪魔ですが、おそらく作品保護のため、触ったりして壊れたりしないようにでしょう。
日本の富士山と五重塔がモチーフになっている作品もありました。突然のジャパン登場に不意打ちくらっていたら、
不意打ちのジャパニーズ、日本語です。「日本地区への迂回路」。どういう意図なんでしょう。ちらっとグーグルで調べてみると、どうやら先ほどの富士山作品と同じアーティストによる作品だそうで、そんな彼が日本へ行くことへの憧れや夢からこの作品が生まれたとか。うんたらかんたら。
そして、ベルリンの壁といえば、これですよね。
ギャラリーの作品のなかで一番有名なものかもしれません。
「兄弟のキス」とよばれるこの作品でキスをしているのは、旧ソビエト連邦の指導者であるLeonid Brezhnevと、東ドイツの指導者であるErich Honeckerの二人です。
イーストサイドギャラリーではベルリンの壁の一部をお土産として販売している露店が多数出ていました。多少心惹かれるものがありましたが、壁を買ってもしょうがないなと我に返り買うのはやめました。
お土産つながりで、次は「アンペルマンショップ」に向かいました。
アンペルマンは、ドイツベルリンの信号機の「進め」と「止まれ」、いわゆる赤青マークのキャラクターとして作られたものです。信号機🚥=アンペル(ドイツ語)らしい。
ペグラウさんというアンペルマンの生みの親である方と、単なる信号機のマークだったアンペルマンをキャラクター化しランプに生まれ変わらせたヘックハウゼンさんという方が出会ったところから、アンペルマンのグッズ化、象徴化がはじまった模様。
二人で行政や芸術家たちを巻き込みながらアンペルマンをベルリンのトレードマークにしたんですって。
ここで、アンペルマンをあしらったキーホルダーやコンドームなんかも売っていたので、友人へのお土産を調達しました。ハンカチやキーホルダー、消しゴムと同じ棚の流れですぐ横にポップなアンペルマンデザインのコンドーム、避妊具が売られているのも、ベルリンらしいなと感じました。パイオニア。
お土産を調達したら、引き続きベルリンの街中を散策します。
同じ形をした、真四角形の形の建物が多く並ぶのも特徴的です。
上の写真の左下に写っている黄色いものが見えますでしょうか。
工事している部分を覆う、よくある立て板にもイラストレーションが施されていたのですが、よく見てください。
工事中の立板にさえゲイシーンが見られます。進んでいますね、ベルリン。
しかもキスをしている二人がボンテージ姿っぽく、筋骨隆々、マスキュラーな感じなのもゲイゲイしくて、ああベルリンって、という気分にさせられます。
ベルリンの街中を歩いていると、上のような熊の像があちこちにあるのですが、ニベアショップの前のものはニベア仕様の熊でした。ニベアもドイツ発祥のものですね。この専門店ではカスタムでオリジナルデザインのニベア缶が作れたりするそうです。
街を歩いていたら、いい感じの建物が見えてきました。
こちら、ベルリン大聖堂です。
ベルリン大聖堂とは、「ベルリン二ブランデンブルク=シュレージシエ・オーバーラウジッツ福音主義教会」に属している聖堂だそうです。なにがなんやら。
ネオバロック様式の建物だそうです。ケルンの大聖堂はバロック様式でしたから、それよりも新しいものになりますね。
「ホーエンツォレルン王家」の記念教会でもあるそうです。ホーエンツォレルン王家って高校の世界史の授業で聞いたことがある気がしますね。
このベルリン大聖堂には、王家に携わった有名人が多数祀られているそうです。
バロック様式ってやはりこの緻密で豪華な装飾がワッサーといっぱいゴテゴテとほどこされてるところが見どころですね。下品じゃないけど派手、というか。
このベルリン大聖堂の近くには旧国立美術館もありました。
特にめぼしい展示はやっていなかったのですが、旧国立美術館の内部をしばらく散策しました。
次は、ベルリン名物のブランデンブルク門へと向かいます。
ベルリン大聖堂や旧国立美術館の近くにある、「ウンターデルリンデン通り」という大通りを西にずっと歩いていくと出会えるのがブランデンブルク門です。
途中、ビアスタンドやソーセージの屋台などを横目にしながら進んでいくと見えてきました。
写真が下手。
ブランデンブルク門はもともと、1730年代に複数建設された関税門のうちのひとつだったそうです。プロイセンがナポレオンに敗けたときにナポレオンに上の部分の像が持ち帰られたり、第二次世界大戦では大きな被害を受けたり、様々な歴史の証人となってきた象徴的な門です。
現在ではニューイヤーパーティーなど、記念ごとの際の会場としても使われているそうです。
東ドイツ時代は人々のアクセス禁止になっていたそうですが、私が行った当時は様々な人、観光客が自由に往来していました。門の写真を撮る人々を見ながら、ベルリンという分断のはざまにあった街の歴史に想いを馳せることができました。
ブランデンブルク門近くには、次の目的地があります。
ホロコースト記念碑です。
正式な名称は「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」。
戦時中のホロコーストで犠牲になったユダヤ人たちのために捧げられた記念碑で、あたり一帯には2711基もの数の記念碑が並んでいます。通常の街並みのなかに突然現れる圧巻な光景でした。
地下には、ホロコーストに関する資料館もあります。
落ち着いて歴史に想いを馳せられる空間かと思いきや、子供が追いかけっこしてたり、インスタ映えする写真をとろうと石碑によじ登る観光客がいたりと様々でした。
捧げられるのがユダヤ人を限定とするのか、ロマやジプシー、同性愛者たちも含めるのかなどとの論争はあるとのこと。他にも、ホロコーストで虐殺された同性愛者たちのための記念碑も別にあるらしい。
そうやってベルリンを観光しているうちに、ハンブルクへ戻るバスの時間が近づいてきました。
16:50出発で、お馴染みのFlixBusでハンブルクへと帰ります。
そして、ハンブルクについたら友人宅に1泊とめてもらいました。
明けて3月7日の正午にハンブルク空港から出発し、帰国となりました。
そんなこんなで、多少あわただしい2週間の北ドイツ周遊の旅の幕は閉じられました。
これを書いている2021年現在、当時20歳になったばかりの自分の旅をふりかえってみて。
ゲイなんだからもっとゲイゲイしい経験もすればよかったのにとは思いますね。
特に、ベルリンにはクィア作品限定の美術館があったり、大きくて有名なゲイクラブがあったりと見どころはたくさんあっただろうに、と思います。
ただ、当時20歳の自分が見知らぬ国の1泊か2泊かしか滞在しないような街で夜に性の香りがむんむん漂うダークなプレイスにゴーできたかと言われれば、そんな大層なことをする勇気はまだ無かったでしょう。
初体験が19歳の頃だったので、ゲイとしてもまだビギナーだったんですよね。
なので、もう一度ドイツにいく機会があるとすれば、ベルリンに長期間滞在してみたいですね。
そして、もっとディープなゲイやクィアカルチャーにふれる経験をしてみたいです。
私の好きな作家さんにKayama Tetsuさんという方がいて、その方が現在進行形でベルリンに在住しながらベルリンでの経験を漫画作品にしていて、興味深く拝見しています。おすすめです。
ということで、20歳のゲイデビューしたてのゲイが旅した、北ドイツ旅行記はこれで終わりとなります。
おしまい。